農業講座 再開します!!

春は、色とりどりの花が野山だけでなく町中も彩り、それだけで気持ちが晴れやかになってきますよね。

家庭菜園やガーデニングをされている方にとっても、楽しみがいっぱいの季節。

そんな皆さまに、朗報です!

昨年来の新型コロナウイルス感染拡大に伴い、ブログ版として連載を続けております「農業講座」が、新年度を迎える4月から再開することになりました!!!

 

再開第1弾のテーマは『お墓さんの花を育てましょう』。

講師はもちろんブログ版でもお馴染みの、豊嶋和人さんです。

定員15名予約優先となりますので、図書館カウンターまたはお電話にて、事前にお申し込みください。

園芸家の皆さんも、これから始めようかなと思ってらっしゃる方も、どなたでも楽しめる講座となっておりますので、是非ご参加ください。

 

 

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ワンコの名前が決まりました!!

例年よりも随分と早く桜が開花し、卒業や人生の新たな旅立ちに、文字通り花を添えてくれていますね。

町立図書館にも、小さな花が一凛、大きく花開きましたよ。

当館オリジナル・キャラクター「かりまいちゃん」のお友だちのワンコ。


 

 

 

 

 

ハートウィーク期間中に開催いたしました「ワンコの名前総選挙」におきまして、本当に本当にたくさんの方々が投票に参加してくださり、ようやくワンコに名前がつきました!!!

候補名は、

 

集計の結果、栄えある第1位に輝いたのは…

 「ひまわん」です!!

 

まんのう町のシンボルでもある「ひまわり」と「ワンコ」をかけて、ひまわん。

満開のひまわりのように、明るく元気なワンちゃんです。

今後とも、末永く可愛がってやってくださいね。

 

 

 

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リアルえほん なりきり写真展 作品大募集!!

題名を聞くだけで、その一場面が頭に浮かぶ…

そんな物語がありますよね。

例えば、あの「おおきなかぶ」なら…

こんな感じ?!

誰もが知っている有名なおはなしの一場面を、“リアル” に真似て、再現してみませんか?

4月23日~5月12日子ども読書週間」に合わせて、町立図書館では、

「リアルえほん! なりきり写真展」を開催いたします。

 

かぶり物、コスプレ、特殊メイクetc.

撮影方法や参加人数などはすべて自由です。

物語の一場面を再現し、写真に撮ってください。

ステキな作品ができたら、A4サイズ の紙に印刷して、図書館カウンターまでお持ちください。

写真画像をメールに添付して応募することもできます

「作品のタイトル」「ニックネーム」「本の題名」とご連絡先の明記をお願いいたします。

 

 

応募いただいた作品は、図書館に展示させていただきます。

たくさんのご応募、お待ちしています。

リアルな絵本の世界を、みんなで楽しみましょう!

 

 作品には、参加者以外の方が写り込んでいないことをご確認してください。

作品はお返しできませんので、コピーをお持ちください。

 

 

 

 

 

 

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今月のおはなし会📖

3月には、花にまつわる別称がたくさんあります。

花見月、桜月、花月…、どれも桜を連想させる言葉ですね。

香川県も開花宣言が発表され、日ごと色づいていく花を見上げるのが楽しい季節なりました。

さてさて、今月も楽しいおはなし会を開催しましたよ♪

 

3月5日㈮は、恒例の「あかちゃんタイム」です。

暖かくなってきたので、みんな部屋から出てきてくれたのかな?

たくさんのちびっ子たちが集まってくれました。

手遊びにわらべ歌、体を動かしたり、家族と触れ合ったりするのは、みんな大好き!

おはなしを通して、いっぱい言葉を覚えてくださいね (^^♪

「あかちゃんタイム」は、小さなお子さんたちの時間です。声を上げても泣いちゃっても大丈夫ですので、気兼ねなくお越しください。

絵本選びなどの読書相談も受けておりますので、小さなお子さん連れの方は、是非「あかちゃんタイム」ご活用ください。

 

3月14日㈰は、「すまいりぃ」による “絵本とあそぼう” です。

3月のテーマは「やさしさ」です。

皆さん、じっくり真剣におはなしを聞いてくれました。

あれあれ?

なんだか目を引く格好をした人がいますね。

おはなしの世界が外へ飛び出してきたみたいで、楽しかったですね (^_-)-☆

 

3月20日㈯は「さぬき語りの会」によるおはなし会です。

テーマは「おでかけしよう!」

待ちに待った春!

お日様のあたたかな日差しに誘われ、どこへ行こうか? 何しようか?

おでかけは冒険!

いっぱいいっぱい楽しもう!

ご参加くださった皆さん、ありがとうございました。

 

📖4月のおはなし会スケジュール📖

2  日㈮   午前10:30~ 「あかちゃんタイム」

10日㈰   午後3 : 00~ 「さぬき語りの会」の絵本とあそぼう

11日㈯   午前11:00~ 「すまいりぃ」によるおはなし会

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高篠こども園 図書館見学 ☺

2月26日㈮、

ポカポカ陽気から一転、春の訪れを焦らすような小雨の中、町立図書館に可愛らしいお友だちが来てくれました。

お迎えしたのは、高篠こども園の年長さん、26名です (^^♪

午前 9時30分、

開館前の図書館を探検するぞ!

園児の皆さんは、元気いっぱいです。

 

最初に見るのは、「返却ポスト」です。

図書館がお休みの日や、遅い時間に本を返す時に利用します。

外から本を入れたことはあっても、ポストの中を見るのは初めてですよね。

中には誰かいるのかな?

みんな興味津々です。

 

ここからは、感染防止対策のため、園児の皆さんには「白色帽子」と「青色帽子」の2班に分かれて体験をして頂きます。

 

まずは、図書館がどんなところか、絵本を使ってお勉強です。

図書館では、みんなが気持ちよく楽しめるように、いくつか決まり事がありますよ。

走ったり、大声を出したり、お菓子を食べたりしちゃダメだよね。

ルールを守って、みんなで楽しい時間を過ごしましょう!

 

お勉強の後は児童書のコーナーに移動して、一人2冊、借りたい本を選んでもらいます。

あれもこれも、たくさんありすぎて困っちゃいますね。

 

3冊じゃダメ? もう夢中です ♪

 

 

では、選んだ本を借りますよ。

町立図書館では、自動貸出機を使って、自分で本を借ります。

順番にやってみましょう!

ピーして、タッチタッチ。レシートが出てきたら、貸出完了。

上手にできたかな?

 

最後に読書通帳の記帳をします。

いっぱい借りて、早く通帳がいっぱいになるといいですね。

最後にもう一つ、おまけのおはなしを聞いて、図書館見学は終了です。

園児の皆さん、お疲れ様でした & 来てくれてありがとうございます。

この日の体験を通して、図書館や本をもっともっと好きになってくれたら、とても嬉しいです。

皆さんの顔を、また図書館で見られることを楽しみにしていますね。

 

それから数日…

図書館に、とってもステキなメッセージが届けられました。

図書館に来てくれた26名の園児の皆さんが、一つずつ書いてくれた文字をつなげて、大きな大きなメッセージカードを作ってくれました。

全員分の心がこもった、とても暖かくて励まされる言葉を、ありがとうございます。

図書館ロビーにて展示しておりますので、ご来館の際は、是非足を止めてご覧になってください。

高篠こども園の園児の皆さん、本当にありがとうございました。

まんのう町立図書館 スタッフ一同

 

 

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第8回 ブログ版 郷土史講座「満濃池シリーズ7」

日ごと気温もぐんぐん上がり、「春爛漫」といった陽気ですね。

まんのう町でも、菜の花が黄色い絨毯をあちこちで広げ、桜が花開くのを待っているようですね。

今年は “いつも通り” のお花見はできませんが、それでもお散歩やドライブの途中に、咲き誇った花を愛でて、春のおすそ分けを頂くくらいはいいですよね。

歴史散策にも絶好の季節ですが、時節柄、大勢でツアーを組むようなことはできませんので、このブログ版「郷土史講座」で、しばし歴史のロマンに浸ってください。

講師は、片岡孝暢さんです。

第8回ブログ版 「郷土史講座」 ~満濃池シリ-ズ7~

<明治初期の満濃池修築功労者人物伝>

今回は、嘉永七年・安政元年の満濃池の決壊後、長谷川喜平治の意志を継いで、池の修築にあたって尽力された方々の功績を、太郎君と花子さんの「対話・問答」を聞きながらお互い考えてみましょう。

太郎くん:『新修満濃町誌』の中の「神野神社」の項に、江戸時代末期から明治時代初頭にかけての人物が、境内社の祭神として記載されており、それが次の5名の方だよ。

松崎渋右衛門・長谷川佐太郎・軒原庄蔵・和泉虎太郎・島田泰雄

花子さん:すると、この方々は、満濃池に多大なる功績を残したのね。

太郎くん:そうだよ。だから、石碑が堤のところに建っている方もいるね。満濃池大修築が完成したのは、簡単に言うと、民間の和泉虎太郎、長谷川佐太郎らの熱心な陳情、官側(行政)の松崎渋右衛門、島田泰雄らの協力、そして底樋の隧道をくりぬいた技術者の軒原庄蔵らのスクラムがあっての賜物だと言えるね。

それでは、功労者の方々の実績を簡単に紹介しよう。

 

花子さん:堤の東端の休憩所の傍に大きな石碑が建っているけど、この方の業績を書いてあるのかしら?(写真①)

写真① 松坡長谷川翁功徳之碑    (本人撮影)

写真② 長谷川佐太郎旧家(琴平町榎井)        (本人撮影)

 

 

 

 

 

太郎くん:「松坡長谷川翁功徳之碑」だね。題字は明治の元勲山縣有朋が、撰文は品川弥次郎によるもので、二人とも長州(山口県)の出身。たぶん、幕末に長州藩の桂小五郎や高杉晋作が琴平に逃げて来たときに、長谷川佐太郎がかくまった縁かもしれないね。

花子さん:書いてある内容も難しいわね。

 

太郎くん:後半の修築に関わる内容は後にゆずるとして、前半の読み下しは、「志を道とし、據(よりどころ)を徳とし、依を仁とし、遊を藝とするは、蓋し長谷川翁の謂いなり。翁の名は信之、字は忠卿(たださと)、號(よびな/雅号)は松坡(しょうは)、佐太郎と称す。讃岐国那珂郡榎井村の豪農にして、考の諱(いみな)は和信、妣は為光氏。翁は人となりて温良、義気有りて、好んで人の急を救う。・・・」だそうだ。

花子さん:人の呼び方、言い方が勉強になるわね。人柄もよくわかったわ。ところで、彼はどんな事をしたの?

太郎くん:彼は日柳燕石や美馬君田らと交遊し、勤皇派であった。満濃池の決壊後、水掛かりが高松、丸亀、多度津の三藩にまたがり、一部天領も含まれていたため、意見が一致しないまま16年間放置されていたそうだ。そこで、彼は榎井村百姓総代(写真②)として、農民たちの窮状を訴える嘆願を度々行ったそうだ。倉敷の弁事伝達所や各藩の間を奔走するが、目的が果たせないまま幕府は崩壊した。慶応4年9月8日、年号が明治に改められ、弁事伝達所、倉敷県へ、そして政府の許可を得て改築するように働きかけたがうまくいかなかった。

花子さん:そこで、高松藩の松崎渋右衛門や倉敷県庁の島田泰雄の支援が得られたのね。

太郎くん:佐太郎自身は「もし失敗したらわたしが切腹して謝る」覚悟があったみたいだね。明治2年(1869)9月工事は開始されたが、丸亀藩の反対でうまく進まず、彼は再度、倉敷県庁に嘆願書を出している。やっとのことで、倉敷県庁の伺いに民部省、大蔵省の指令が下り、工事を着手する運びとなった。工事はその後順調に進み、明治3年(1870)3月に石穴が貫通、6月に築堤が完成した。人夫は合計144,996人と総工費は38,000円で、佐太郎も私財1万数千円を投じたそうだ。

花子さん:立派な方ね。

 

花子さん:堤の東端の休憩所の所に歌碑が建っているわね。(写真③)

写真③ 松崎渋右衛門佐敏(すけとし)辞世の歌碑     (本人撮影)

 

太郎くん:彼は満濃池の修築事業にかかわりながら、常に死を覚悟し、辞世を用意していたようだね。「君の為 國の為には 惜しからじ 仇に散りなん 命なりせば」(写真③)という内容だ。この碑は渋右衛門の御子息の自宅、高松市片原町に建立されていたが、片原町再開発事業により移転となり、満濃池土地改良区が寄贈を受けたものだそうだよ。

花子さん:どんな事をされた方なの?

太郎くん:彼は高松藩の執政で農政長も兼ねていた。長谷川佐太郎を支持しており、明治2年(1869)6月、彼と共に満濃池を視察した。その結果、旧堤防の西隅が自然の大岩盤であることに着目し、ここに隧道を掘り抜いて底樋にすれば、揺替普請の必用がなくなり、堤防の決壊も免れると確信したそうだ。

花子さん:松崎さんは判断力、実行力のある方ね。でも、他の藩は納得してくれたの?

太郎くん:多度津藩や丸亀藩は反対していたけど、高松藩が中心で事業を進め責任を持つということで、協力したようだ。しかしながら、工事着手前の9月8日、彼は高松藩内の内訌(彼は勤王家で守旧派との間で)によって城内桜の馬場で謀殺されたそうだ。43歳の生涯であった。とても残念でたまらないね。

花子さん:でも、なぜ丸亀藩と多度津藩はそこまで反対するの?

太郎くん:両藩とも高松藩より池の受益地が少なく、工事の費用分担や先導者など微妙な問題があったみたいだね。そんなか、彼は反対派を説得、推進した立役者なのだ。そこで、佐太郎は明治5年、神野神社の境内に松崎を祭る神祠を建立した。現在、神社に向かって左側奥にあるのがそれだよ。昭和になって佐太郎も合祀されたそうだね。(写真④)

写真④ 松崎神社(手前) (本人撮影)

 

花子さん:軒原さんはどこの方で、何をした人なの?

太郎くん:彼は寒川郡富田村の庄屋であり、田面村の掛け井手から弥勒奥池の石穴を貫通する穿削工事(105間余り:189m)に成功した技術者だそうだよ。(写真⑤)

花子さん:その方がなぜ、満濃池の修築にかかわったの?

太郎くん:高松藩の執政職の松崎渋右衛門が彼の実績を認め、満濃池の底樋穿盤御用掛に命じたそうだよ。もちろん、実測計算などの頭脳的な協力者であった富田村の萩原栄次郎や田面村の多田信蔵のことも忘れてはならないと思うよ。石穴の延長は30間5尺(50m余)で、両端口から掘り始め、寸分も違わず貫通させたそうだから神業だよね。

花子さん:現在もその隧道が使われているらしいけど、私もその水門の出口を見たことがあるわ。大きさを調べると、間口3.5m、高さ4.2m、底樋管の全長197mだったと思うけど、工事は大変だったでしょうね。(写真⑥)

 

写真⑤ 軒原庄蔵の銅像(さぬき市「みろく自然公園」内) (本人撮影)

写真⑥ 満濃池の水門(樋門)(6月15日のゆる抜き当日の様子:5t/秒の放水を1週間程続け、天候や稲の生育状況に合わせて調整する。令和2 年6月16日付『四国新聞』より) (本人撮影)

 

 

花子さん:あまり聞かない方ね。

太郎くん:彼は那珂郡金蔵寺村の豪商で、先祖は南朝の楠木正成の一族和田和泉守の流れを汲むとされており、数代前に讃岐に来て農業を始めたそうだ。

花子さん:そんな方がなぜ満濃池の修築にかかわったのかしら?

太郎くん:安政元年(1854)、たまたま満濃池が破壊して農家が困っているのを見て、長谷川佐太郎と協力して修復事業に尽力したそうだ。そして、砂糖の製造と販売で財をなし、巨額の私財と労費を惜しまず竣工に寄与したようだよ。

花子さん:とても立派な方ね。でも、具体的にはどんな事をされたの?

太郎くん:当時は幕末で、幕府も各藩も財政がひっ迫していたので良い返事がもらえなかった。そこで、独自に金策に努力し、大阪の豪商と借款の確約を取り付けたようだ。でも、高松藩は同意せず、水泡に化したそうだね。

もう一つは、慶応元年(1865)5月、密かに知人を通じて、朝廷に嘆願書をだし目的を果たそうと試みたことかな。仕様見積書には、弥勒池同様に生岩を掘り抜くことや資金の用立てのことも記したようだけど、願い入れ不十分で天領の人を一人加え図面書類も揃えて再願するよう返答されている。(写真⑦)

花子さん:そしたら、この方の石碑はないの?

太郎くん:池堤にはないけど、下記の写真⑧のように、和泉虎太郎ゆかりの石灯籠がJR琴平駅前にあるよ。本当は、もう少し評価されてもいいと思うよ。

写真⑦ 和泉虎太郎が考えた「満濃池竪樋底樋五十一歩之図」(和泉豊成所蔵資料、香川県立ミュ-ジアム保管)の模写図(筆者)

写真⑧ 和泉虎太郎寄進の石灯籠(正面に、「和泉虎之助正清」/虎太郎に改名前の公称名と、「那珂郡金蔵寺村」と刻まれている。) (本人撮影)

 

 

花子さん:失礼だけど、この方も聞いたことがない人だわ。

太郎くん:倉敷県庁(満濃池地と池御料三か村は倉敷県の所管/幕府領だった故)の役人で参事をされていたようだね。長谷川佐太郎から出された嘆願書が採用されたおり、彼を支持し、明治3年2月5日、島田泰雄が池御料を訪問して会議を開いようだ。この時、至急築堤工事に取り掛かること要望する高松藩と、慎重に対応すべきとの丸亀藩の意見の対立があったけど、彼の説得でようやく2月23日から築堤工事に着手することができたそうだ。

花子さん:5人とも立派な方ばかりね。そのおかげで、今の満濃池があるのね。

太郎くん:それから、満濃池の堤東端の所の「真野池記」(写真⑨)を知っているかな?

写真⑨ 石碑「真野池記」明治8年9月建立 (本人撮影)

 

花子さん:見たことはあるけど、どういう意味の石碑かはわからないわ。

太郎さん:これは、幕末1854年(嘉永7年/安政元年)7月に決壊した満濃池は明治三年(1870)に再築され、これを記念して建立された石碑(顕彰碑)だそうだ。碑文の内容は、初めに平安時代における空海の満濃池再築の業績に触れ、さらに江戸時代初期における生駒藩主高俊の家臣西嶋八兵衛による再築をたたえている。続いて、江戸時代後半から幕末にかけての度重なる修繕の苦労と底樋の石造樋管工事、安政元年(1854)の決壊、これに伴う甚大な被害のありさまを述べている。後半では、この復旧にかかわった高松藩主松平頼聰(よりとし)と、復旧に奔走し底樋の石穴方式を推進した執政松崎渋右衛門の功績をたたえ、今一度空海の徳に感謝し、「真野池は池の大王なり」として締めくくっている。

花子さん:なるほどね。池堤の東西の端にはそれぞれ意味のある石碑が建っているのね。

 

歴史の陰に隠れた知られざる「偉人」たちによって、現在の便利で豊かな暮らしがあるんですね。

片岡さん、ありがとうございました。

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知ってほしい あの日のこと~東日本大震災10年特別展示~

2011年3月11日 14時46分18秒…。

東日本大震災の発生からまもなく10年を迎えます。

当時、香川県でも県庁職員や警察官などが被災地に派遣されたり、避難された方々を受け入れたり、あるいは復旧作業員として、ボランティアとして、災害とその復旧を見守った方々も多くいらっしゃったことと思います。

しかし、あれから10年の月日が経ち、大人たちはその記憶が薄らぎ、また震災そのものを知らない世代も多くなってきました。時勢もあり、被災者を招いた講演会や、実際に被災地を訪ねることができない今…、私たち図書館として何かできることはないか。そう考え、 “震災の記憶が風化しつつある大人たちへ”、そして “震災を知らない子どもたちへ” 向けて、3月の一か月間「東日本大震災10年特別展示」を行うことにいたしました。

 

館内「ティーンズの森」におきまして、町立図書館にある震災関連書籍およそ250冊を展示しています。

これらの本を読んで、改めて知った「あの日のこと」を専用シートに書き込んでください。それを東北3県を中心とした大地図に貼って、まとめていきたいと思います。

あの日、どんなことがあったのか。

あの日、人々はどう動いたのか。

あの日、どんな悲しみがあったのか。

一人一人が得る知識は少しでも、みなさんで共有することによって大きな気づきになる。みなさんも、この節目にもう一度「あの日のこと」を調べ、学び、感じ、考え、たどってみませんか?

また、3月10日には “震災を知らない世代” である満濃中学校の1年生を対象に、同じように本を読んで知った「あの日のこと」を地図にまとめる特別授業を行い、11日以降に館内に展示する予定です。

そちらも是非、併せてご覧ください。

 

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今月のおはなし会📖

梅は咲いたか、桜はまだかいな…

有名な江戸端歌(はうた)の歌詞にあるように、あちこちで梅の花が見頃となり、早咲きの桜が咲いているところもあるようですね。

季節が冬から春へと移りゆく中、町立図書館では、今月も楽しいおはなし会を開催しましたよ。

 

2月5日㈮は、月に一度の「あかちゃんタイム」です。

手あそびはみんな大好き。

体を動かすと、自然と笑顔になります。

「おかお」や「からだ」

自分にもあるね、みんなにもあるね。

じっとしていられないほど、楽しんでくれました。

「あかちゃんタイム」は、小さなお子さんたちの時間です。声を上げても泣いちゃっても大丈夫ですので、気兼ねなくお越しくださいね。

絵本選びなどの読書相談も受けておりますので、小さなお子さん連れの方は、是非「あかちゃんタイム」ご活用ください。

 

2月14日㈰は、「すまいりぃ」による “絵本とあそぼう” です。

当日は、バレンタインデー。

花よりチョコレート??

おはなしも大好きなちびっ子たちが来てくれました。

はじめは恥ずかしそうにしていた子も、お話が始まると興味津々 (^^♪

どんどん、物語の世界に引き込まれていきます。

お母さんやお父さんと一緒に楽しめるお話をたくさん読んでくれました。

最後は、明るい笑い声が響いていましたね。

 

2月20日㈯は、「さぬき語りの会」によるおはなし会です。

春めいた陽気に誘われるように、ちびっ子たちが集まってくれました。

みんなには、もう春の足音が聞こえてるかな?

春はすぐそこ。そんなお話をたくさんしてくれました。

少し早いけれど、おひな様も登場です!

ひな壇にはたくさんのお人形が並んでいるけど、ぜんぶ名前が言えるかな?

 

ご参加くださった皆さん、ありがとうございました。

 

館内にも、ひな人形を飾っていますので、ご来館の際には是非ご覧になってください。

 

📖 3月のおはなし会スケージュール 📖

3月5日㈮  午前10:30~ 「あかちゃんタイム」

3月14日㈰   午前11:00~ 「すまいりぃ」の絵本とあそぼう

3月20日㈯  午後3 : 00~ 「さぬき語りの会」によるおはなし会

 

皆さまのご来館をお待ちしています。

 

 

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第9回 ブログ版 農業講座「水に稲と書いて水稲(すいとう)という話」

まだまだ朝夕は冬の寒さですが、昼間は随分と過ごしやすくなりましたね。

日ごとに春が近づいてくるのが感じられ、どことなく気持ちも明るくなるようですよね。

真冬の空っ風の中、外に出るのはためらわれますが、気温も上がり、日差しが色を濃くし始めると、お庭仕事や家庭菜園も楽しくなりますね。

では、本日も「農業講座」始まります。

講師は農業の達人、豊嶋和人さんです。

【水に稲と書いて水稲(すいとう)という話】

 

満濃池 護摩壇岩(本人撮影)

 

久しぶりに満濃池をながめに行きました。冬ということもあって水が少ないですね。護摩壇岩まですっかり地続きになって、島という感じがしません。今はかんがい用水の需要期ではないのでこういう景色も余裕を持ってながめることができるのですが、ここ2年ほど比較的雨が少なかったこともあり、需要期にも島と堰堤が地続きになることがしばしばありました。そんな風景を見ると心がざわつきます。わたしは需要期の地続きを小豆島の観光名所にちなんで密かに「地獄のエンジェルロード」と呼んでいますが、もう少しマシな呼び方があったら教えてください。

かんがい用水の需要期は言うまでもなく水田に水が張られている時期、特に6月から9月です。この時期に水がないと困ります。大正生まれのわたしの祖父に聞いた話ですが、旱魃にみまわれて田んぼに入れる水がこないとき、学校から帰ったらやかんに水をくんで稲の一株一株に水を少しずつかけていくのが子どもの頃の仕事だったそうです。想像するだにおそろしい、地獄のようです。

かつてはそんな時代もありましたが、その後の満濃池の嵩上げや香川用水からのかんがい用水の供給開始もあって、孫のわたしがやかんで稲に水をやることはなくなりました。ほんとうにありがたいですね。

さて、小麦、とうもろこし、稲の世界三大穀物の中で、稲は比較的たくさんの水を必要とします。雨量の多いアジアで主に栽培されるのはそのためです。しかし旱魃となれば収量は激減しますから小麦などの水をあまり必要としない作物のほうが有利にも思えます。実際このあたりでも、阿讃山脈の傾斜地では水を溜められないですからもちとうもろこしの栽培が盛んでしたし、うどんの原料となる小麦は丸亀平野で水稲の裏作として昔からよく作られていました。

それでも水稲が主食として作られたのはなぜでしょうか。水をたくさん必要とする水稲の優位点、それは水そのものにありました。田んぼに水を導き、溜め、流すことで、連作障害を回避して毎年稲を作ることができるのです。

その話をする前に、よく耳にする連作障害とはなんぞやっていう話をちょっとだけ。連作障害とは読んで字の如く、連作による障害です。だから連作はよくないですねとなるのですが、連作障害といってもその原因は様々です。その原因さえ特定して取り除いてあげれば連作しても問題なくなりますね。原因は大きく分けて3つあります。

 

 

ではそれぞれの原因について稲の場合を見てみましょう。病害虫のうち稲の害虫については以前にお話しましたが(注1)、これは田んぼの外から飛んでくるので仕方ありません。病害は主に糸状菌(カビ)が原因となりますが、糸状菌は酸素を必要とする好気性のものが多く、湛水によって密度が減少するため、稲が病気にかかりにくくなります。余談ですが糸状菌はpHの低い酸性土壌を好みます。ついこの間、何十年、ひょっとしたら何百年も水稲だけを作付けしていた田んぼのpHを測ってみたところ、だいたい4.2でした。相当な酸性土壌ですが、湛水のおかげで糸状菌が蔓延することはなさそうです。

(注1)第8回 ブログ版  農業講座 参照

稲もじつは根から植物の生育を阻害する物質(アレロパシー物質)を出しています。他の植物との競争に勝つためです。が、そういった物質がたまってくると、自家中毒を起こすことがあります。アスパラガスが典型ですが、耕作放棄地に生えるセイタカアワダチソウにもそういった現象が見られます。稲の場合は水に流してもらえるので連作しても自家中毒にはなりません。

かんがい用水には様々な養分が溶け込んでいます。その量は微量でも、栽培期間中たくさんの水が供給されると結構な量になります。特に、稲にとって重要なケイ酸はかんがい用水から数kg〜数十kgも田んぼに入ります。以前、稲わらや籾殻を戻すだけでずっと無肥料でお米を作っている田んぼを見せてもらったことがあります。谷あいにあって両側の山から養分をたくさん含んだ水がたくさん入ってくる田んぼです。なるほど、と思いました。

ブログ版郷土史講座で連載されている満濃池の歴史をわたしも楽しく読んでいます。度重なる決壊にも負けず池を守ってくれた先人たちの苦労の上にわたしたちの郷土があるんですね。今年もそろそろ米づくりの準備がはじまります。

 

図書館にも稲や米づくりの本はたくさんありますが、わたしが特におすすめしたいのは以下の2冊です。

 

『よくわかるイネの生理と栽培』 農山漁村文化協会編  (6162 ノ)

稲という作物の特性から導き出された先人の栽培法のエッセンスがコンパクトにまとめられています。この本に限らないのですが稲の栽培技術については、この技術は自分の田んぼの風土にも当てはまるかな?と考えながら読むのが大事です。稲は沖縄から北海道まで日本中で栽培されています。例えば東北の5月の田植えとこちらの6月の田植えでは地温水温が全然違いますよね。となると成長速度や肥料の効き方も別物です。おのずと栽培の考え方も変わってきます。気候風土に向きあいながら理屈っぽくというのがポイントでしょうか。

 

『イネの高温障害と対策(登熟不良の仕組みと防ぎ方)』 森田敏著  (6162 モ)

その気候風土も温暖化の波に見舞われています。稲の場合、8月から9月にかけての暑さでうまく熟れずに米粒が白くなってしまう生理障害が近年頻発していますね。悪条件でもちゃんと稲に光合成してもらう様々な工夫のロジカルな説明がまるで謎解きのようで引き込まれます。そういえば満濃池のゆるぬきは10年ほど前までは6月13日でした。それが田植えを遅らせて登熟期の高温障害を少しでも回避するために今の6月15日になったのでしたね。

 

次回は湛水しない畑の話。旱魃に強い「植物」が旱魃に強い「野菜」とは限らないというテーマを取り上げようと思っています。

「水」は、人間だけでなく、すべての生命にとって必要不可欠なもの。

そして農業と水は、切っても切れない関係ですね。

豊嶋さん、ありがとうございました。

 

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第7回 ブログ版 郷土史講座「満濃池シリーズ6」

春一番が吹いたかと思えば、桜の花が驚いて開いてしまうのではないかと思うほどの陽気が続いていますね。

もともと気候が穏やかな香川県でも、長い歴史の中では、地震や干ばつなど様々な災害と戦ってきた過去がありますよね。

本日の郷土史講座は、満濃池と地震のお話です。

片岡さん、よろしくお願いします。

第7回ブログ版 「郷土史講座」 ~満濃池シリ-ズ6~

<嘉永7年・安政元年の地震による満濃池決壊の状況とその対応>

今回は、太郎くんと花子さんが協力して、満濃池の堤が嘉永7年・安政元年、決壊したときの状況や対応が分かる資料①~④と、参考資料を探しました。これについての二人の「対話・問答」です。

 

 

太郎くん:嘉永7年(1854)は、11月27日安政元年に改元しているから、満濃池の決壊年月日を「嘉永7年7月9日」、あるいは「安政元年7月9日」とする場合があるようだね。

花子さん:今年、5月1日に平成31年から令和元年に改元したのと同じね。

花子さん:ところで、資料①からは、どんなことが分かるの?

太郎くん:満濃池が決壊したとき、満濃池から一里(約4km)程の金毘羅の阿波町や金山寺町などは床上浸水となり、五条村や榎井村の往来の人の乳あたりまで水がきたようだ。そして、家は流されその水は丸亀町口(丸亀市の中府町あたり)まで流れて行ったようだね。

花子さん:資料②からは、満濃池の水かさが4合目まで溜まっていた、池尻の池守宅も     流され、死人も出たと書いてあるわね。そして、金刀比羅の鞘橋も流されそうになったみたいね。

太郎くん:資料によっては、当時の満濃池の水かさが1合目、4合目と違うけど、もし満水であった場合はどうなっていたのだろう?

花子さん:被害が想像できないわね。

太郎くん:南海トラフの大地震が何十年か後に起きると云われているけど、万が一今起きたら、堤が決壊するかもしれない。すると、満水の場合、現在の貯水容量は1,540万㎥あり、当時の貯水容量を584.6万㎥(第一次嵩上げ前)とするなら、約3倍になるよね。池が満水のとき、地震で決壊することを想定したら、すごい被害になることが予想されるね。

花子さん:当時、被害があまり少なかったのはどうして?

太郎くん:貯水量が少なかったからかもしれないけど、資料③④から、人的な対応として、樋外の石垣から濁水が流れているのを、池守がいち早く発見したから、連絡・対応が少しでも早くできたのだと思うよ。池守の方は、日ごろから池の状況を見守っている責任感のある方だと思うね。

花子さん:そうね。このことは、今の私たちにも言えることだし、学ぶべきことだわね。

太郎くん:芳澤直起氏は、資料③を提示し、「漏水の発見後、早々に周辺の住民に周知され、警戒できた事により、幾分か対応する時間ができ、被害を最小限に押さえる事ができたとも考えられる」と言われる。確かに、僕もその通りだと思うよ。

花子さん:ところで、この満濃池の決壊の原因はこのときの地震で堤防の地盤が緩んだものなの、あるいは底樋を木樋から石碑に変えた普請工事のずさんさからなの?

太郎くん:先に挙げた芳澤氏によれば、普請工事の工法に問題があり、地震は一つの契機であり、満濃池は万全の状態ではなかったから崩壊したという。(工事の不十分さに関係する資料を掲示した上で)

花子さん:下の絵図①が底樋を木樋から石碑にしたときの、嘉永年間(1848~54)の工事の様子ね。堤中央の底の所が石造りになっているのが分かるわ。そして、堤左手の神野神社前には池御料(御用の旗)の小屋が建ち、反対側の右手には、高松藩や丸亀藩の旗印が見えるわ。堤上にはお役人が立ち、堤下にはとてもたくさんの人が働いているわ。とても多くの人手が必要なのね。

太郎くん:そうだよ。このとき(嘉永5年)の底樋後半部の石樋仕替人夫は、総数376,400人となっている。池普請は農繁期の百姓にとって負担が大きく、「行こうか、まんしょうか、満濃の普請、百姓泣かせの池普請」という里謡が残っているくらいだから。

 

 

太郎くん:上記の資料④とこの絵図①を関連させ整理してみると、この普請工事が嘉永6年(1853)11月に終わり、翌年の6月14日讃岐地方に地震が発生、7月5日堤防の漏水を発見し、7月9日に決壊した、ということになるよ。

花子さん:資料①にも書いてあるけど、底樋の石を2年かけ丹誠を込めて築いたものが、一瞬に壊れ流されてしまったのね。本当に残念でならないし、とてもつらかったと思うわ。

太郎くん:でも、僕も田中健二氏が言うように、長谷川喜平次が底樋を木樋から石碑に替えることを主導したわけであり、確かに普請工事のまずさに原因があるかもしれないけど、彼の提案は石の水道の先駆けであったことを強調したいね。

花子さん:決壊したときの、底樋の石材が発見され、現在「かりん会館」の玄関入口前の所に“歴史の証人”として展示されているわね。(下の写真①、②)

 

 

筆者:参考までに、嘉永7年、安政元年は、伊賀上野地震(旧暦6月15日/新暦7月9日:M7.4)、安政南海地震(旧暦11月5日/新暦12月24日:M8.4)が起きている年です。今年は、この地震から約170年経つようです。

現在県内の届け出対象となるため池は、14,614カ所あるそうです。そのうち、民間所有のものが6,312カ所、豪雨によるため池決壊の可能性があるため、防災上安全管理(貯水量や堤防の高さなどの報告、自己管理等)の必要性が問われているようです。 (令和2年(2020)7月5日付『四国新聞』より引用)

また、ため池の存在意義について、次のようなTV番組がありました。ため池があるから、そして池には一人ひとりの池管理(水を溢れないように適宜抜き、堤体が崩れないように草刈りをするなど)者がいるからこそ、下流地域の人が安心して暮らせるということに感謝しなくてはならない。(NHK「ゆう6かがわ」『ため池災害への備え』令和2年11月16日放映より)

 

香川県はため池が多いことでも知られていますが、歴史に学ぶことは本当にたくさんありますね。

片岡さん、貴重なお話をありがとうございました。

 

町立図書館では、講師の片岡さんが挿絵を描かれた、満濃池の龍神伝説の紙芝居を展示しております。

 

満濃池の伝説を、味わい深い絵とともにお楽しみください。

全文は、第5回 ブログ版 郷土史講座でご覧になれます。

 

 

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