6月21日(土)10:30~12:00
会議室にて郷土史講座「満濃池と空海~空海の築造伝説~」が開催されました!
大勢の方がご参加くださいました!
満濃池は大人気ですね😊
…ところで「伝説」ってどういうこと?
まずそう思った方もいらっしゃるのではないでしょうか?
だって満濃池を空海が造ったって有名なことなのに。
でも研究者は、空海が造ったと「云われる」満濃池、と言うんだそう🤔
今回の講座では、その理由を池内先生に伺いました。
まずは満濃池の基礎知識から。
昔の満濃池に見られるものは、護摩壇岩、堰堤、余水吐、池之宮…
ここで先生からクイズ「この中で今も残っているのは何でしょう?」
池之宮との予想される方が多かったのですが、答えは護摩壇岩でした。
池之宮があったところは、1959年の工事で削り取られてしまったというのです😨
現在では、池之宮があったところの向かい側に、神野神社となって存在しています。
あらら、ちょっぴりイジワルなクイズですね(笑)
ではなぜ護摩壇岩が残ったのでしょう?
護摩壇岩は、修築工事中に空海が護摩を焚き続けたところ…つまり、空海と満濃池を結びつける重要な場所。人々の信仰心が、護摩壇岩を残したのではないか?とのことです。
史料ではどうなっているのでしょう?
たくさんの史料が、満濃池と空海の関わりを伝えています!
しかし、史料の読み解きには注意が必要…成立年代や作られた経緯など、検討すべきことが山積みです💦
ご紹介くださった史料をひとつひとつ解説してくださいました。
結果、空海と満濃池の係わりの示す記述のある史料は、どれも後世のものだったり、作り手が意図的に追加したものだったり…体裁のおかしな公式文書も。
ちなみに、同時代の史料には空海に関する記述は見当たらないようです。
お次は、考古学的な考察。
満濃池の水で丸亀平野を潤すためには大規模な用水路が必要です。どうなっていたのでしょう?
昔の土器川や金倉川は、ご存知の通り暴れ川!これをコントロールできなければ、用水網を敷くことはできません。流域に満濃池の水を通せるような大規模な灌漑技術は、古代にはなかったそうです。
(個人的に気になったのは、だとしたら古代の満濃池ってなんのために造られたの🤔)
現在のような一面の水田が丸亀平野に見られるようになったのは、なんと近代以降!?
つい最近でびっくり😲
空海と満濃池の関わりは、学術的には否定されているんだそう…😞
11世紀に「空海はまだ死んでおらず、今も高野山で人々のために瞑想している」という信仰が興ってから、史料に伝説が接ぎ木されていくような形で関係が説かれていったとのことでした。
でも、学術的な正確さばかりが歴史ではありません!
ユネスコ無形文化遺産に登録された「綾子踊り」とも深く関わる先生はおっしゃいます。
変化していくこともまた、歴史なのだと。
人間の心が育む伝説も、歴史のひとつの側面。
護摩壇岩を残したような人々の信仰がなければ、今日の満濃池の姿もなかったのですね。
今回の郷土史講座は、史料を批判的に読み解いていく先生の眼力がキラリと光る講座となりました。
見事な読み解きに、思わずうなり声がもれる場面も。
あんなふうに史料を読めたら、ものすごく面白いだろうなぁ…✨✨
今回の講義内容は、池内先生がご自身のブログ「瀬戸の島から」で公開してくださっています!
とっても詳しくて勉強になりますよ😲
ぜひご覧ください!
https://tono202.livedoor.blog/archives/32392058.html
https://tono202.livedoor.blog/archives/32396290.html
次回の郷土史講座は、8月24日(日)
「中寺廃寺跡」をテーマに開催されます!
詳しい内容につきましては、後日、館内掲示のほか、図書館ホームページやFacebook、告知放送などでもご案内いたしますので、こちらもぜひご参加ください!