松の内も明け、学校もお仕事も通常モードに戻った方が多いかと思いますが、町立図書館も寒さやコロナに負けず、様々な展示やイベントを始動させていますよ。
昨年、ブログ版として新連載を始めた「郷土史講座」では、今年も引き続き、地域の知られざる歴史を楽しく学んでいただけます。
講師は、もうすっかりお馴染みですよね (^_-)-☆
片岡孝暢さんです。
第6回ブログ版 「郷土史講座」 ~満濃池シリ-ズ5~
<廃池による池内村と西嶋八兵衛の再興>
今回は、4回目の疑問点を太郎くんと花子さんが探究した学習の成果を報告します。
花子さん:平安末期の元暦元年(1184)、満濃池が決壊したらしいけど、その後復旧は行われず、池地は荒廃したままだったのね。
太郎君:そのようだね。満濃池が決壊したときは、源平合戦が行われていた頃だね。その後の状態を表わした絵図①があるよ。この絵図は嘉永年間のものだそうだよ。
花子さん:なるほど。嘉永年間というのは、1624年~1645年だから、この時点までこの状態で放置されていたということなのね。
花子さん:池内に金倉川の川筋が見えるわ。また、図に向かって中央の池の宮がある小山の右側に流れている川は、空海が作ったといわれる余水吐かな?それから、大小様々な岩石がころがっているけど、堤に使われていたのかしら?
太郎くん:そのようだね。この堤あたりの地層は岩石(花崗岩)だったようだ。また、池地には民家や農地、あぜ道などが描かれているよ。長きにわたっての農地を耕作し生活していた様子がうかがえるね。それから、右の山上にも家が3軒あり、そのうち手前の1軒は屋根が立派だね。矢原家と何か関係があるのかな?また、山々にはたぶん松の木だと思うけど、たくさん植えられているね。堤や「ゆる」の修繕に使ったのかもしれないね。現在も、満濃池の周囲の山々には松が多く植生しているよ。
花子さん:図上のところに、記録の文章みたいなものがあるわね。
太郎くん:西嶋八兵衛による池再築の着工から完成までの工程や、矢原氏との交渉過程の事が書かれているらしいよ。
花子さん:ところで、池地はだれの所有地だったの?社会科の授業で寄進地系荘園というのを習ったけど、これと関係しているの?
太郎くん:万乃池を領有していた開発領主は矢原氏で、国司からの税等から逃れるために、中央の権力者(上皇)に寄進したようだね。
嘉元4年(1306)、「昭慶門院御領目録案」(昭慶門院とは亀山上皇の皇女:熹子内親王の女院号)の讃岐条に、「萬乃池 秦久勝」とある。たぶん、秦氏が知行人だとすると、矢原氏との領地における力関係が疑問だね。その150年後の長禄2年(1458)、満濃池は加茂別雷神社の社領となっているようだ。 (『満濃池名勝調査報告書』、『満濃池史』を参照)
花子さん:西嶋八兵衛さんはどうして、満濃池を再築することになったの?
太郎くん:生駒藩政の時代、新田開発が進められる一方、干ばつも相次ぎ、雨が少ない讃岐では池築造(水の確保)が必須だったと思うよ。
太郎くん:4代藩主の生駒高俊のとき、彼はまだ11歳だったので、外祖父の藤堂高虎が後見人として藩政を執り、家臣の西嶋八兵衛が伊勢津藩(三重県)より呼ばれた。彼は数年間で90余のため池の築造や増築、香東川の治水工事にも成功をおさめているらしいよ。とにかく、彼は水利、土木技術、築城の設計などに優れていたようだね。
花子さん:西嶋八兵衛さんが、満濃池の再築をした時は、池内地はだれの領地だったの?
太郎くん:矢原氏の領地だったようだね。前記の「満濃池営築図」の左下末尾の附記や、西嶋八兵衛が矢原正直(又右衛門)に出した書状から、寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へ来て、那珂郡の毎年の旱害について懇談がなされ、正直は西嶋の企てを聞いて賛同し、池内に所持している田畑25町余歩を残らず差し出す旨を申し出たそうだ。そして、潔く立ち退き、20余りの池内村の人々もこれに従ったようだ。(藤田勝重『西嶋八兵衛と栗林公園』を参照)
太郎くん:「矢原家系図」によると、西嶋八兵衛は満濃池地を詳しく調査し、池地の豪族矢原又左衛門正直と夜を徹して話し合い、池敷の提供を受け、修築の協力を得ただけでなく、矢原家に伝承されていた空海修築の記録や伝承を見せてもらい、それを検討して再築の計画を立てることができた、そうだよ。(『讃岐のため池誌』を参照)
太郎くん:これらからすると、満濃池は加茂別雷神社の社領となった後、矢原氏が領有していることになる。たぶん、讃岐国の領主となった仙石秀久のときに、知行地として賜ったのではないだろうか?
花子さん:矢原氏は公共の利益の事を考え、自らの領地を寄付するなんて立派な方ね。でも、池内村の人々は立ち退き、どこへ移ったの?
太郎くん:矢原正直は、満濃の池守に任命されるにあたって、満濃池上下において50石を与えられているようだよ。(下記資料①/生駒家家老西嶋八兵衛、淺田右京、高俊の命を奉じ、矢原又右衛門に満濃池上下五拾石を宛行う:出典中の解説より引用)
資料① 寛永12年(1635)4月3日 生駒家家老蓮著奉書 矢原家文書
(『新編香川叢書 史料篇(二)』香川県教育員会 1981より抜粋。尚、資料中の(正直)は筆者が記入。)
花子さん:そしたら、その池下の50石の地に、池内村の人々を移したのかな?
太郎くん:僕もそう思うよ。「樋外(ひのわき)50石」の水利特権を認められた地域が池下、池尻にあると聞いたことがあるよ。大貝股、平林股、桶樋股(おけどいまた)らしい。下記の写真①が、その地域のあたりだよ。
太郎くん:そして、移住の代償として無条件で常時配水が受けられるという特別の水利権が与えられたらしいよ。また、池内村時代にこの地域の人々は、池地の天真名井の水を桶樋で引水して耕作していたので与えられた特権であるという説や、この地域が高松藩の種もみ採集地域であったからという言い伝えもあるらしいよ。(『新修満濃町誌』、『満濃池史』を引用)
花子さん:でも、下の写真②のように、この三地域の水田は、金倉川より高い所にあるのに、どうやって水田に水を入れているの?
太郎くん:僕も最初疑問だったけど、水門の所に行ってみてやっとわかったよ。実は、下の写真③のように、水の出口の所(ほたる見公園内)で、金倉川とは別に3つの方向に分水しているようだね。
花子さん:なるほどね。いろいろ工夫されているのね。
一つの「池」にまつわる話が、回を重ねるごとにどんどん枝葉を広げ、歴史の一ページを彩っていくようですね。
歴史ロマンの旅に終わりはないですね。
片岡さん、ありがとうございました。