第9回 ブログ版 郷土史講座「満濃池シリーズ8」

立秋も過ぎ、暦の上では秋…。

ここ数日の長雨で暑さも少し和らいでいますが、このまま秋に突入とはいかないですよね (^_-)-☆

昨年に続き、旅行やお出かけがままならない夏休みですが、こんな時だからこそ、じっくりと郷土の歴史に触れてみるのもいいですね。

どうぞ歴史ロマンをたっぷりと味わってください。

講師はお馴染み、片岡孝暢さんです。

第9回 ブログ版「郷土史講座」 ~満濃池シリーズ8~

<なぜ、大規模な第三次嵩上げ工事が行われたのだろうか?>

その前にここで、第一次と第二次嵩上げ工事について、簡単に整理しておきます。

◇ 第一次嵩上げ工事 / 余水吐が堤西から堤東へ

工事期間:明治38年~明治39年 堤防を0.87m嵩上げし、堤高24.48m、総貯水量が660万2千トン、満水面積94.3haとなる。同時に余水吐の改修を行う。幕末に決壊した満濃池は明治3年(1870)に復旧されたが、度重なる旱魃や、新田開発による水田面積の増加、他の作物から水稲への作付け転換の増加等で、依然として、慢性的な水不足に悩まされ続けた。

◇ 第二次嵩上げ工事 / 満濃池が財田川の水もらっている!

工事期間:昭和2年~昭和5年 堤防を1.52m嵩上げし、堤高26m、総貯水量が780万トン、満水面積105.2haとなる。同時に、財田川からの承水隧道新設工事を実施(満濃池への取水については協議紛糾)する。尚、財田川からの承水については、寛政年間(1782~1801)当時高松藩郷普請方小頭役(ごうふしんかたこがしらやく)であった吉野の岩崎平蔵がその計画をしていたが、藩には採用されず、悲願は約130年目に実現したことになる。彼は、満濃池や亀越池の普請、土器川筋の井堰整備や水争いの解決などに尽力し、多大なる功績を残した人物である。

第一次嵩上げ後も、旱魃は大正時代も執拗に続き、貯水容量までもが減少した。これは貯水容量が増加しながらも、流域の山林荒廃による満濃池への土砂流入堆積が原因のようである。こうしたことから、再度嵩上げの要望が高まり、大正12年(1923)国の「用排水幹線改良事業補助要項」が出され、はずみをつけることとなった。

 

第8回 ブログ版「郷土史講座」

 

 

 

☆ それでは、主題についての二人の「対話・問答」を始めます。

花子さん:ところで、現在の堤はいつ頃できたの?以前、学習した西嶋八兵衛さんが作った堤と位置は違うの?

太郎くん:次の図①と現在の堤(写真⑥)を見比べてみると、よくわかると思うよ。

 

 

 

花子さん:なるほど、満濃池の水が引いたとき、平らな敷石が少し見えているけど、そのあたりが、八兵衛修築の堤体になるのね。すると、現在の堤は相当大規模な工事だったのね。

太郎くん:第三次嵩上げ工事(県営満濃池用水改良事業)と言って、昭和14年の大干旱魃を契機に、昭和15年(1940)から事業が始まり、昭和33年(1958)に工事が完了したようだね。だから、この時、神野神社は堤防西端にあったのだけど、どうしても移動せざるをえず、現在地に移転したようだね。

花子さん:ところで、これだけの土をどこから運んできたのかしら?

太郎くん:地元の方の話によると、遠くから運ぶのは大変なので、実は池の南西にある近くの山を削って運んだらしいよ。下の写真⑦を見ると、その跡だそうだ。山土を運ぶ時、最初はトロッコや「からはし」(土を入れた「かます」を棒でかついで)を使用していたけど、後にベルトコンベアを使用するようになったそうだ。そのルート(最短距離)は、神野山の所のミニ八十八カ所巡りの道を通って、御柱が建っている所(写真⑧)から池の方へ落としていたそうだよ。でも、ベルトコンベアを使ったけど、手押し車も使わないといけなかったから大変だったらしいよ。

 

 

 

 

太郎くん:また、この時は戦後だったので、仕事もなくこのあたりの地域の方がこの工事に携わったようだ。その時に歌っていた炭鉱節の替え歌(作業唄)の一番を紹介するね。(地元の古老の方がお母さんから教えてもらった唄の歌詞だそうです。)

「満濃よい池 宝(たから)池 サア ヨイ ヨイ 春は吉野の 山桜 秋は茸(たけ)狩り 紅葉狩り 来て見て喜ぶ 満濃池 サ ヨイ ヨイ」

花子さん:大変だったのね。学校の授業でも習ったけど、神戸のポ-トアイランドも近くの六甲山から山土をベルトコンベアで運んだのと同じね。当時としては、画期的なことだったようだわね。

花子さん:他にもいろんな苦労があったと思うけど?

太郎くん:第二次嵩上げの時もそうだけど、貯水容量が増加すると集水流域が不足し、降雨が少ない年には満水が困難となる。そこで、第二次嵩上げの時は、財田川流域からの取水を計画し、今回は、土器川より取水するための天川導水工事も県営事業として、同時に実施したようだ。もちろん、土器川の右岸側から反発があり、分水の公平化を図ったそうだ。戦争の激化とともに事業は一時中止されたけど、戦後再開され、堤防、取水塔も含め昭和33年度(1958)、事業は完成したそうだ。次の写真⑨が土器川からの取水口である天川導水だよ。

そして、この天川頭首工満濃池放水路並びに12幹線水路の改修工事の完成を記念して、満濃池の余水吐を見守るように建てられているのが「完成記念碑」(堤東側)だよ。(写真➉)

(満濃池が土器川の水をもらっている!)

 

 

 

花子さん:そして、これらの第三次嵩上げ工事のことを物語っているのが、堤の南西の所(神野寺登口の手前)に建っている「竣工記念碑」ということね。(写真⑪、⑫)

 

 

 

花子さん:でもなぜ、こんな大規模な工事をしてまでも、貯水量を増やす必要があったの?

太郎くん:昭和9年と昭和14年の渇水で、人々は水不足に苦労したようだね。当時の新聞記事①をみると、その時の状況がわかるよ。

 

太郎くん:大砲や太鼓などで大きな音を出し、空気に振動を与えることで、気圧に変化を起こし、雨を降らすという考え方のようだね。これほどまでしてでも、雨の恵みを求めていたのだね。

太郎くん:こうした干ばつが昭和14年にも起き、県知事さん自ら滝宮天満宮で雨乞祈願祭を行い、各学校の児童に対しても、日の出と日没前に、「土瓶水」(どびんみず)で稲一株一株に水を与えよと、指示したようだよ。(昭和14年9月8日付『香川新報』より)

これらの二度の大干ばつを通して、県下に農業用水に対する危機感を募らせた。満濃池掛かりでもこのままでは、再び干ばつを被ることは必然であり、貯水の増大を図る必要があると考えたようだね。そこで、協議を重ねた上、三度満濃池を嵩上げすることを決定したようだ。

花子さん:なるほど、よくわかったわ。農家の方々はもちろん行政の方も一生懸命がんばってくれたのね。そしたら、第三次嵩上げ工事の結果もどうなったのか、まとめてくれると有り難いわ。

太郎くん:わかったよ。次のようになると思うよ。

 

◇ 第三次嵩上げ工事

工事期間:昭和15年度~昭和33年度(途中戦争のため中断) 堤防を6m嵩上げし、堤高32m、貯水量1,540万㎥、満水面積138.5ha、満水位EL146m、堤体天端高EL149m、取水塔高30m、吸水管8ケ

(参考)池の南北の直径約2km、池の周囲約20km

 

 

たかが池、されど池…。

知れば知るほど奥が深いですね。

満濃池シリーズは、まだまだ続きます!

片岡さん、今回もありがとうございました。

 

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